新選組マップ

■ 島原・西本願寺界隈 
(全行程約3.5km 約2時間  新選組記念館 → 島原大門 → 輪違屋 → 角屋 → 西本願寺屯所跡 → 天満屋騒動跡 → 本光寺 → 不動堂村屯所跡)

坊城通五条を下がると「新選組記念館」がある。
間口3軒ほどの2階建て、好事家の主人が集めた資料などが展示されている。
新選組隊旗が店の前に出ているときは、主人が在宅のしるし。

島原大門は島原遊里の入口であり、かつ出口。
大門には火災時の水桶、井戸、出口の柳が昔通り。
幕末の頃は、遊里は祇園の方が地理的に優勢だった。
門を入って右手に置屋「輪違屋」の豪快な建物がみえるが、拝観謝絶の看板を出している。

門から真っすぐ西に突き当たったところが揚屋「角屋」だ。
江戸時代の揚屋建築では日本唯一のもので、重要文化財に指定されている。
揚屋は店に芸妓、舞妓を置かず、客があるときに置屋からよんだ。
彼女たちの最高位が太夫と呼ばれ芸能、詩文など最高の教養を身につけていた。

太夫を呼べるのは豪商、大名、大寺院の住職ら。
新選組は市中探索を理由にこの「角屋」をよく利用した。
ここでは新選組と勤皇の志士らの事件はなかったとされるが、贅をこらした「青貝の間」の床柱には2筋の深い刀痕が残されている。
戯れなのかは知らないが。
「角屋」では、どんな客でも大刀は玄関台所付近の刀箪笥に預ける決まりだが、新選組は市中探索、尊攘派志士らと暗闘を繰り返し、たとえ遊興の場でも大刀はもったままだった。

新選組のなかで隊長気取りで隊規を乱した芹沢鴨が最後に飲んだのもこの「角屋」で、泥酔して壬生の八木源之丞邸に帰った芹沢は、近藤勇らに粛清された。

「角屋」の北西に小さな住吉神社があり、かつて島原の西門があった。
冠木門(かぶきもん)の立派なものだったが、昭和と平成の輪禍で倒壊、平成10年に記念碑が建てられた。
壬生の屯所から歩いて20分ほど。
島原は新選組の気晴らしの場所。
近藤勇、土方歳三はよくもてたという。

新選組は手狭な壬生から西本願寺に屯所を移した。
堀川花屋町に楼閣風の太鼓楼が見える。
この奥が参拝会館になっており当時、600畳敷きの北集会堂があった。
池田屋騒動で名前を売り、幕府から特別褒賞金を受けていただけに、西本願寺は土方歳三らの言うとおり屯所を貸した。
しかし、念仏道場に新選組では門徒が怖がって本山に参れない。
隣の興正寺も大砲の空砲訓練でキモを冷やした。
西本願寺向かい側の油小路花屋町下ルの旅館天満屋で、土佐・海援隊らによる新選組襲撃事件(天満屋事件)があり、逆に殺された十津川郷士・中井庄五郎の殉難碑が、お地蔵さんの左隣に立っている。
油小路七条交差点では、新選組を脱退した高台寺党の伊藤甲子太郎が近藤勇の妾宅で酒を飲み、帰路、新選組に惨殺され、遺体を引き取りに来た藤堂平助らが待ち伏せの新選組と乱闘、斬り殺された。
油小路木津屋橋上ルの本光寺前に「伊藤甲子太郎外数名殉難の跡」碑が昭和46年に建てられた。

新選組は西本願寺の全額負担で「御殿のような」不動堂村屯所に移転した。
場所は西堀川塩小路下ルの「リーガロイヤルホテル京都」付近と見られる。
平成15年夏、有志によって「誠」碑が建立された。
「誠」と隊服のだんだら模様が朱色で陰刻され、近藤勇の国を思う歌が彫られている。
 
新選組記念館 島原大門 輪違屋
角屋玄関 角屋西門跡碑


 
 
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