新選組マップ

■ 京都御苑〜二条城界隈 
(全行程約5.5km 約2時間30分  堺町御門 → 小御所 → 蛤御門 → 薩摩藩邸跡碑 → 京都守護職屋敷跡碑 → 二条城 → 小浜藩邸跡)

総面積65ヘクタール、深い緑に囲まれた京都御苑。
堺町御門はいわばその正面入口にあたる。
門を入って、すぐ左には五摂家の一つだった九条家の別邸、捨翠亭がある。
二層からなる数奇屋風書院造りで、往時の公家文化の香を今によく伝える遺構だ。

1864(元治1)年、7月19日。
神聖な場であり続けた場所で驚天動地の騒ぎが起きた。
失地回復を狙う長州の軍勢が薩摩・会津など公武合体派と白兵戦を繰り広げ、あろうことか禁裏に向かって砲撃した。
世にいう禁門の変。
堺町御門の辺りでも九条家と向かい合う鷹司邸に長州の兵が立てこもるが、越前福井藩の兵と新選組の隊士たちの手で追い散らされた。

建礼門に通じる砂利敷きの大通りは、維新までは付近一帯に公家屋敷がぎっしりと建ち並び、その数、200軒に上ったという。

東西250m、南北450m。
低い築地塀と細くて浅い御溝に囲まれた御所内側は、禁門の変の前後、政局の「台風の目」となったところだ。
紫宸殿、清涼殿に続く小御所では大政奉還を決意した徳川慶喜の処遇を巡り、朝廷内の新幕派と討幕派双方が諸藩の代表ともども激論を交わした。
武家社会が政権を掌握した鎌倉時代以来、およそ政治とか権力とは無縁の世界だった禁裏が、にわかにあわただしくなっていく。

御所の東北隅を昔から猿ケ辻と呼ぶ。
築地塀を隅切りしたように見えるのは方角上、鬼門にあたるから。
土塀の屋根裏に烏帽子をかぶり、御幣をかついだ木彫りの猿がかしこまって鎮座する。
日吉山王神社から禁裏を守るために派遣された使いだが、夜な夜な付近を悪戯して回るので、金網を張って、閉じ込めたという。
おおらかで、いかにも宮廷の言い伝えみたいだが、幕府にはここでも攘夷派急先鋒の公家が暗殺される事件が起きた。

猿ケ辻とはちょうど対角線上にあたる御所の南西角が、禁門の変最大の激戦地となった場所だ。
樹齢300年を過ぎたムクの大木があり、ここで長州軍のリーダー格だった来島又兵衛が討ち死にした。
すぐ西にある蛤御門の柱の上部には、今も当時の弾丸痕が残る。
どっしりとして貫禄ある門だ。
歴史の証人を思わせる風格が漂う。

二条城南の御池通南側に面して旧小浜藩邸跡の石碑も立っている。
ここは、慶喜が将軍に就任した後もしばらく居住したところだ。

1866(慶応2)年、犬猿の仲だった慶喜と長州藩が手を結んで、歴史の歯車は大きく動いた。
時の流れに抗しきれなくなった徳川慶喜はその翌年秋、二条城二の丸御殿で大政奉還を発表する。
小御所会議で地位剥奪と領地没収が決まると、慶喜は城の裏門を抜け出し、大坂へ落ち延びた。
ひたすら将軍警護に尽くした新選組の面々は、地団太を踏んで口惜しがったという。
 
二条城 小浜藩邸 京都所司代跡碑
京都守護職屋敷跡碑 猿ケ辻 堺町御門
鷹司邸跡碑 蛤御門


 
 
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