鳥羽・伏見の戦い 敗走。傷だらけの新選組。

「新政府軍」錦の御旗 賊軍、巨砲の前に霧散


 

1868(慶応4)年1月3日。
正月気分も覚めやらぬ京で、応仁の乱依頼の内乱が勃発した。
新選組も加わった旧幕府軍vs薩摩・長州軍が京の伏見で激突、大砲が飛び交う戦争を目のあたりにした京の庶民は度肝を抜かれた。
世にいう鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)である。

千人規模が敵味方に分かれての「戦争」は、新選組にとって戊辰戦争が最初で最後だった。
そしてこの戦争で、新選組は結党以来の敗北を味わうことになる。
前年10月14日、将軍慶喜が大政奉還を願い出て「王政復古」が宣言されていた。
御所を追われた会津・桑名藩らの旧幕府軍は退却していた大坂から京へ出兵して、伏見奉行所を大本営にして布陣。
新選組百人余も加わり総勢千人余の大舞台になった。

迎え撃つ薩長の新政府軍は800人の軍勢で、鳥羽・小枝橋一帯に布陣。

▲ 薩摩軍が旧幕府軍を迎え撃った御香宮神社

▼ 官軍の本営・城南宮。薩長軍はこの辺り一帯に布陣し、近くの小枝橋での発砲で先端を開いた。

▼ 激戦に巻き込まれた妙教寺 (納所)

薩長軍の進軍ラッパと空砲が響き、戦いの火ぶたが切られた。
薩摩軍の本陣、御香宮から新選組の布陣した伏見奉行所に大砲が次々と撃ち込まれ、旧幕府軍本営はたちまち火の海となった。
直前に負傷して大坂にいた近藤に代って土方が隊長を務めた新選組も御香宮に大砲を撃ち込み応戦したが、砲台の数が違った。

相手の官軍は軍服に鉄砲の近代武装。
新選組は鉄兜と陣羽織に槍や刀。
どうみてもかなわない。
「われこそは・・・・・」と名乗りをあげている間に鉄砲で打ち抜かれ、生え抜きの幹部・井上源三郎ら50人近い隊士を戦死させた。
一時は押し気味だったが新政府軍に錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍は一転、賊軍になり戦意を失って敗走する。
土方らは傷ついた兵士を連れ、最後の砦だった淀城に逃げ込もうとしたが、すでに淀藩は形成不利と見て新政府軍に寝返った後。
非情にも門は、ついに開かなかった。

▼ 維新戦没碑(桃陵中学校の敷地内)

  

▲ 銭取橋 (現・勧進橋)                     ▲ 淀に立つ戊辰役戦場跡の碑

「侍として義を全うせよ」  近藤は斬首、沖田病没


 

薩長の新政府軍に錦の御旗が掲げられ、旧幕府軍が敗走する中、15代将軍慶喜は松平容保らと大坂城を脱出、海陽丸で江戸に向かった。
武士らしく忠心を尽くすべく、最後の戦いに挑んだ鳥羽・伏見の決戦だったが、守る対象の将軍が逃亡してしまってはどうしようもない。
伏見で戦闘中に敵陣から「もう将軍は京へは来ないぞ。徳川幕府は崩壊した。お前らは賊軍だぞ」とやじられた新選組は、わが耳を疑ったという。
近藤ら生き残った40余の新選組隊士たちは、将軍慶喜の後を追うように1月12日、傷心しきって富士山丸で江戸に向かった。

しかし、近藤はまだあきらめていなかった。
幕府が消えては人生も消えてしまう。
江戸に帰った近藤は再び故郷多摩で兵士を募り、甲陽鎮撫隊を組織して甲州街道に転戦、勝沼で板垣退助率いる官軍を迎え撃った。
大名格に昇進、軍資金五千両をもらったが鳥羽・伏見の戦い同様、にわか仕立ての烏合の衆の軍隊では到底近代装備の官軍の敵ではなかった。
大敗した近藤は逃げるように江戸に立ち返った。
さらに近藤は下総流山(現千葉県)へ向かうが再度敗北、官軍に自首し、4月25日板橋で斬首された。
35年の生涯だった。
 
 

▲ 光明寺跡 (戊辰役東軍戦死者埋骨地 = 淀)

▼ ここも激戦の地 ・ 長円寺 (淀)             ▼ 旧幕府軍戦没兵士を埋骨した愛宕茶屋埋骨地

   

▼ 旧幕府軍が敗走しながら布陣した淀堤千両松跡 (京都競馬場)


 
 
 

江戸に帰り江戸城を死守するはずだった近藤が、なぜ江戸を離れたのか。
その陰に江戸城無血開城をもくろむ勝海舟の策略があったといわれる。
近藤らに江戸城に乗り込まれると、せっかくの西郷隆盛と交わした無血開城のシナリオが台無しになる。
勝は近藤を巧におだて、官軍の江戸入りを食い止める最後の旧幕府軍の大任を与え、江戸から体よく追い出したのではないか。
その橋渡し役が近藤の腹心・土方歳三だったともいわれる。

沖田総司もまた、江戸で病死した。
27歳。
 
 

   

▲ 旧幕府軍がたどり着いた淀城もすでに官軍の手中に(淀城跡)  ▲ 鳥羽伏見之戦跡地碑 (納所)
 

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