大政奉還 静かなる革命、隊士を呑む

260年余、徳川幕府に幕。 慶喜、粛々と朝廷に上表文


 

幕府は長州藩の追い落としを謀って、2度の征長戦を試みたが、結果的にそのもくろみは失敗に終わった。

この時期、歴史の歯車を大きく動かす出来事が起きた。
1866(慶応2)年1月21日、敵対関係にあった薩摩と長州が手を組んだのである。
「今日より双方皇国のおん為、誠心を尽くし、きっと尽力をいたすべき事」など、両藩は盟約6カ条を締結した。

半年後、将軍家茂が大坂城内で死去。
15代将軍を継承した慶喜のよき理解者であった孝明天皇まで12に亡くなった。

むろん慶喜も手をこまねいていたわけではない。
朝廷の懐柔など次々に巻き返し策を図ったが、反幕から討幕へ変転する時の流れには、抗しきれなくなった。
 
 

▲ 徳川15代将軍慶喜

▼ 慶喜が「大政奉還」の上表文を発表した二条城二の丸御殿

 
 
 
 
 
 

「従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し、広く天下の公儀を尽くし・・・・・」。
慶喜が朝廷に発表した有名な「大政奉還」の上表文の一節である。
1867(慶応3)年10月14日のことだった。
その前日、二条城二の丸御殿に在京40藩の重役たちを招集し、老中・板倉勝静が上表文を読み上げ、諸藩の賛同を得た。
260余続いた徳川政権の幕切れとしてはあまりにもあっけなく、粛々と儀式は執り行われた。

この大政奉還については、政権を天皇に返上するのであって、薩長の手に渡すのではない。
「いずれまた・・・・・」と慶喜は考えたようにも受け取れる。
事実、それから10日後、征夷大将軍の辞退を申し出て、朝廷側の反応をうかがうが、12月9日には「王政復古」の大号令が発せられ、続く小御所会議で慶喜の地位剥奪と領地没収が決まった。
 
 
 
 
 


▲ 小御所。ここでの会議で慶喜の地位簒奪が決められた

▼ 長州・木戸孝允邸跡    ---1866年1月21日、薩長同盟なる---  薩摩藩邸跡碑
   
 

龍馬、非業の最期  新国家の夜明けを待たず

京の市中はこうした事態に一時、無政府的様相を呈し、治安は悪化するばかりだった。
大政奉還から1カ月後の11月15日夜のこと、河原町四条上る西側の近江屋で土佐勤王の坂本龍馬が、同志の中岡信太郎とともに暗殺された。
龍馬は当時、だれが見ても不可能だと思われた薩長同盟を実現させた立役者である。
さらに土佐の山内内堂がまとめた大政奉還の建白書も、彼が長崎から都に上がる船の中で構想を練った「船中八策」が基になった。

若くして江戸に遊学し、勝海舟と出会って、開国論に悟りを開いた龍馬は、その後、海援隊を組織し、海運と貿易に身を投じる。
薩長同盟も大政奉還も、すべては諸外国から日本の独立を守って、平和裏に統一国家を創りあげようという大志に根ざしたものである。

その龍馬が暗殺された。
龍馬らが組織した海援隊と陸援隊が中心になって、必死の犯人探しが始まった。
当初は新選組の仕業とされた。
近江屋事件から一週間後の12月7日夜、油小路花屋町の旅館天満屋で紀州藩公用人の三浦久太郎と新選組の隊士7人が会食しているところを襲われる。
「天満屋騒動」と呼ばれるこの事件で近藤の甥、宮川信吉が斬殺された。
それでも真犯人は見つからない。
幕末最大のミステリーとなった。

   

▲ 薩長同盟成立や大政奉還建白書の立役者・坂本龍馬     ▲ 龍馬が脱藩した土佐藩邸跡碑
 

ぬれぎぬ3年後に判明 幕府見廻組の仕業

京の町に吹き荒れた「ええじゃないか」の群集に紛れ、闇の中に消えた刺客が判明するのは、維新後の1870(明治3)年のことである。
箱館戦争で降伏した者の自供から佐々木只三郎指揮の幕府見廻組の犯行だったという。

▲ 龍馬、中岡信太郎遭難の地碑    ▲ 中井庄五郎殉難の碑       ▲ 中岡信太郎の寓居碑     ▲ 西郷隆盛
 
 
 
 

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