物情騒然、幕末の京 剣よ吠えろ! 新選組奮戦す。

▼ 土蔵の内部。
   二階から吊るした縄を使って古高を供述に追い込んだとされる

1863(文久3)年8月18日、会津・薩摩を中心にした公武合体派のクーデターが成功して、尊王の急進派公卿と長州派が京の都から追放された(七卿落ち)。
代ってこの年の暮れには、将軍後見職の一橋慶喜が都に入る。
さっそく将軍徳川家茂の再度上洛の準備に取り掛かり、政局の流れは一時、幕府側に大きく傾いたかに見えた。
嵐のように吹き荒れた尊攘派のテロも、少しは鎮静化の兆しを見せる。
幕府はこの機を逃さず、市中の治安回復に向け一段と徹底した取り締まりに乗り出していった。

その急先鋒を務めたのが京都守護職直属の新選組であった。
当時、新選組の手勢は近藤勇局長以下、80名。
手分けして、都になお、くすぶる志士たちの動向に目を光らせる。
 
 

▼ 旧前川邸土蔵の外観            ▼ 近江の志士・古高俊太郎が潜んでいた枡屋跡の碑

   
 

1864(元治元)年6月5日の朝、前から内定を続けていた四条小橋の薪炭商・枡屋喜右衛門宅を急襲。
捕縛した喜右衛門を近藤と副長の土方歳三が拷問にかけたところ、驚愕するような事実が次々に判明する。

捕らえられた喜右衛門自身、仮の名であり、商人に姿を変えた近江の志士・古高俊太郎と分かった。
さらに問い詰めると、古高は「近々、御所を焼き討ちにして、佐幕派公卿の中川宮を幽閉、京都守護職・松平容保を討ち果たした後、天皇を長州へ連れ去る計画が進んでいる」と自白した。
そして計画実行のために長州はじめ諸藩の浪士が、三条界わいの旅宿に次々と集まって来ているというのである。

近藤らは容保に急を知らせ、応援を求めるとともに、すぐさま大捜索の手はずを整えた。
約束の刻限、午後8時になっても、会津藩3000の兵は現れない。
しびれを切らした近藤は新選組だけの単独犯行を決断、局長と沖田総司ら10名は鴨川の西側を、土方ら24名は東側を1軒1軒しらみつぶしに探索していった。

▼ 新選組が池田屋に斬り込んだのは祇園祭宵山の日だった(旧暦6月5日)
現在でも同好の士がパレードを繰り広げる

10時過ぎ、浪士たちの密会の場に最初に踏み込んだのは、近藤隊の方である。
三条小橋西の池田屋。
宿の亭主の素振りを怪しいとにらんだ近藤、沖田らが一気に2階へ駆け上がる。
やがて土方隊も合流して、浪士30余名と激しく斬り結んだ。
この夜の戦闘で池田屋に居合わせた浪士のうち、尊攘派の実力者だった肥後藩の宮部鼎蔵ら7名が即死、23名が捕われの身となる。

世に「池田屋騒動」と呼ばれたこの事件で、新選組の側も3名の隊士を失うが、その勇名は一躍、天下に轟いた。
幕府から500両とも600両ともいわれる多額の褒美をもらい、隊士たちの士気はいやが上にも高まった。
一方の尊攘派は宮部はじめ古高や長州藩の吉田稔麿ら志士たち指導層を失い、大きな痛手を被る。
 
 

▼ 池田屋騒動の碑  ▼ 平野国臣ら志士     ▼ 宮部鼎三らを葬った    ▼ 禁門の変で長州勢はまず伏見から攻め込んだ。
                 数十人終焉の碑。      三縁寺墓地            藤森神社も衝突の場となった。
                 六角獄舎跡に立つ      (現在は岩倉へ移転)
         
 

市中火の海 2万7千戸焼失

「禁門の変」は、この池田屋騒動からわずが1カ月ほど後の7月19日、勃発した。
騒動の知らせを受け、悲憤の絶頂に達した長州藩は6月下旬、軍勢を続々と京に送り込む。
この日未明、長州の軍勢は伏見、天王山、嵯峨天龍寺の三方から御所に向かって、進軍した。
その数、1600.
すでに禁裏御守衛総督に就任していた一橋慶喜は藩主父子らの赦免嘆願を退け、長州側に退去勧告を突きつけた。

戦闘はまず伏見・藤ノ森での衝突に始まった。
大垣藩兵に新選組や会津藩の加勢で幕府側が圧勝するが、残る2隊は御所にまで到着、禁裏に迫って、修羅場の市街戦となった。
この時、長州側の砲弾が禁裏に向けて撃ち込まれる。
まさかの事態に御所の中は一時、大混乱に陥った。

しかし、この戦闘で最大の被害を被ったのは京の庶民だろう。
後に「鉄砲焼け」ともいわれるが、御所周辺からあがった火の手は折からの北風にあおられ、南へ拡大。
市中は文字通り火の海と化した。
三日三晩、燃え続け、洛中の3分の2を焼き尽くした。
河原や周囲の山中は非難した人たちであふれ、戸数2万7500、土蔵1300、寺社塔頭250カ所が焼失したという。

禁門の変は別に蛤御門の変とも呼ばれる。
禁門が天明の大火の際、初めて開かれたことから、蛤が焼かれてその口を開くのに例えられたのである。
烏丸通に面したその蛤御門が最大の激戦場となった。
ここで会津藩、薩摩連合軍とぶつかり合った長州勢は、リーダー格の来島又兵衛が戦死する。
最後は兵力で10倍以上の差をつけた幕府軍が御所を守り抜いた。

21日には、新選組の近藤局長らが散り散りになって敗走する長州兵を天王山に追い詰めた。
禁門の変の首謀者だった真木和泉ら16名を取り囲み、ついに真木らは自害して果てる。
禁門の変で惨敗した長州は多数の兵を失ったばかりか、禁裏に発砲した咎で朝敵の汚名まで被せられることになる。
二次にわたる征長の役。
朝命による幕府の追討軍と交戦せざるをえなくなったのも、このためだ。
「禁裏発砲、逆罪明白」のレッテルを剥がすのに、相当の時間がかかった。

▼ 長州の軍勢は天龍寺にも陣を構えた                     

▼ 塔頭・弘源寺本堂に残る刀傷         ▼ 三条大橋

    
三条大橋制札事件

1866(慶応2)年夏、三条大橋西詰めの制札が、墨で塗りつぶされ、鴨川の河原で踏み壊される事件が起こった。制札は、長州を「朝敵」と決めつけ、罪状を書き連ねたもので、禁門の変の直後に幕府が公布したものだった。

幕府に監視を命じられた新選組は三条大橋付近に待機。数日後、8〜9人の人影が現れ、制札を引き抜いて川に投げ込んだ。すぐさま原田左之介らの一隊が斬りかかり、数人を惨殺。相手は全員土佐藩士であった。それからは制札に指一本、触れる者はいなくなったという。

▼ 内部の衛士見張り部屋


 ▼ 伊東甲子太郎は月真院に御陵衛士屯所を設けた

▼ 御陵衛士の仮宿舎となった城安寺

高台寺党

禁門の変の余韻がさめやらぬ1864(元治元)年秋、勤王家の伊東甲子太郎が元門弟の新選組隊士・藤堂平助の引きで近藤と会談、尊王敬慕と攘夷で合意し参謀として加わった。
しかし次第に互いの方向の違いが明らかとなり、伊東は孝明天皇=1866(慶応2)年12月病死=の御陵を守りたいと、衛士を志す。
1867(慶応3)年3月、伊東は同志とともに新選組を離脱、やがて高台寺塔頭の月真院に禁裏御陵衛士屯所を設け、のちに高台党と呼ばれた。
大量の脱退者を出した新選組は報復を企て、同年11月の油小路の変へと至る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

油小路の変 袂分かった伊東を惨殺

そんな折から近藤局長は、内部の統制強化にも一段と力を注いだ。
1867(慶応3)年11月18日、いったんは組織の参謀として迎えた伊藤甲子太郎を油小路木津屋橋辺りでめった斬りにしてしまう。
「油小路の変」と呼ばれる事件で、路線の違いから袂を分かった伊東とそのグループ、「高台寺党」はこれで壊滅した。
 

▼ 伊東が重症で担ぎ込まれ絶命した本光寺  ▼ 孝明天皇陵。泉涌寺東の月輪山中腹にある

   

▼ 伊東、藤堂平助らは新選組の手で壬生・光縁寺らに葬られたが   ▼ その墓地
  後に戒光寺に改葬された

   
 
 
 

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