新選組誕生

歓喜 「武士になれたぞ」

将軍家茂警護は謀略の口実
 清河爆弾演説に浪士あ然

▼ 清河八郎

新選組の前身となった浪士隊一行240人余が江戸を出発したのは1863(文久3)年2月だった。
上洛する将軍家茂公の警護が主目的だったが内情は違っていた。
幕府の募集した浪士隊をそっくり尊攘派に洗脳、こともあろうに討幕の鉄砲玉に使おうという策略が潜んでいた。

謀略の首謀者は、浪士隊結成を幕府に提唱した清河八郎だった。
清河は出羽国(現山形県)庄内藩の郷士。
朱子学と千葉周作の北辰一刀流を身につけて全国行脚、尊攘派の若きリーダーだった。
身分を問わずとして集められた浪士隊は、しっかりとした佐幕思想を持っていた近藤勇らの試衛館グループと、芹沢鴨ら水戸勤王派くずれの一派のほかは、寄せ集めの烏合の衆だった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

▼ 隊士らが武術の稽古などに励んだ壬生寺境内

江戸を出発してから16日目の2月23日、浪士隊は京に着き、洛外の壬生村(現京都市中京区)の前川邸、八木邸、南部邸、新徳禅寺に旅装を解いた。
尊王、佐幕派の対立が激化、治安も悪くなっていた京だったが、浪士たちにはやっと来た花の都だった。
到着の夜、浪士全員を新徳禅寺に集めた清河が突然、「京へ来たのは将軍警護、というのは名だけのこと。真実は尊王攘夷先鋒たらんとするにある」と檄を飛ばした。
尊王攘夷など何のことやらさっぱり分からない浪士たちは、ただあ然とするだけだった。
付き添ってきた取締役や近藤、芹沢らは「謀られた」と思った。

清河は翌朝、朝廷に上書きを提出した。
幕府はかんかんになって怒ったがどうにもならず、とりあえず幕臣と近藤らは国土防衛を口実に清河を江戸に追いやろうと計画、清河自身も攘夷決行で引き返すことを決めた。
翌3月13日、清河に率いられた大半の浪士は江戸に発った。
残ったのは近藤ら試衛館グループと芹沢ら水戸派のわずか13人だった。
 
 
 
 
 

▼ 入浴の夜、清河八郎が浪士に爆弾演説を行った新徳禅寺の本堂                  

▼ 会津藩が本陣を置いた金戒光明寺

▼ 京都守護職 ・ 松平容保 (会津藩主)

   ▼ 京都守護職屋敷の門                 ▼ 幕末に倒れた会津藩士を葬った墓地 (金戒光明寺)

      

▼ 隊名を授かり近藤が「会津新選組 隊長近藤勇」と大きく墨書きした旧前川邸の雨戸

浪士隊は一匹狼ぞろいの浪士たちばかりで、統率がなかなか取れない。
浪士隊の上洛途中に罷免され、京で再び募集役を命じられて浪士を集めた殿内が隊の主導権奪取に動いた。
あわてた近藤と芹沢手を組み、3月25日夜、殿内は近藤らによって四条大橋で惨殺された。
5月になると京の政情はますます悪化。
尊攘派の公家、姉小路公知が御所の猿ガ辻で暗殺され、8月には天誅組が五条の代官所を襲撃、18日には公武合体派がクーデターを起こし、急進派公家七卿と長州藩が御所から追放される(七卿落ち)。
この八・一八の変で、壬生浪士隊はいち早く御所に駆けつけ手柄をたてた。
その功労として金一封と「新選組」の隊名を武家伝奏より授かった。
今も屯所跡の旧前川邸に「会津新選組 近藤勇」と誇らしげに書かれた雨戸が残る。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

▼ 芹沢鴨暗殺の現場と伝えられる八木邸鴨居の刀傷        ▼ 芹沢が乱行した因幡薬師。見世物小屋に難癖をつけたらしい。
                
 

派閥均衡から「独裁」へ
 局中法度、味方をも粛清

▼ 局中法度違反で切腹した山南敬助の墓 (光縁寺)

京、大坂などから募集した壬生浪士隊は100人を超えた。
大隊を率いる局長には芹沢鴨と近藤勇、副長には新見錦、山南敬助、土方歳三が就いた。
近藤ら試衛館派と芹沢と水戸派を均衡させた派閥人事である。
近藤ら農民派が、徳川御三家水戸派の武士を立てた巧みな人事とも言える。

入洛の道中に、宿の手配忘れから、芹沢に煮え湯を飲まされた近藤だったが、策士・土方の助言もあって、あえて芹沢を筆頭局長とした。
副長も新見が筆頭だったが、試衛館から山南と土方の二人が入った。

しかし両雄並び立たずで、派閥人事は一枚岩とはいかない。
大半が一匹狼の輩で隊の統制がきかない。
「幕府直属の武士らしく振る舞え」と、近藤は隊の憲法ともいえる「局中法度」を制定した。
▽ 士道に背くな ▽ 脱局を許さない ▽ 私闘を許さない ---など鉄の掟で組織の結束を狙った。
が、内実は粗暴な芹沢派追放の狙いもあったのである。

そんな折、芹沢が借金を断られた西陣の生糸問屋に火をつけ焼き討ちにした。
朝廷や庶民の怒りが爆発、京都守護職・松平容保は近藤に芹沢暗殺の特命を与えた。
近藤派は9月18日夜、島原での宴席の後、真夜中に遊女を連れてほろ酔い気分で屯所に帰宅したところを見計らい、土方、沖田らが寝込みを襲って芹沢と腹心の平山五郎を惨殺した。
その直前には副長・新見も粛清され、新選組は近藤 - 土方 - 沖田ラインで固まり全盛期を迎える。
 
 
 
 
 
 

▼ 新選組幹部が時折、宴を開いた島原・角屋内部

厳しすぎる局中法度が皮肉にも次々と味方を粛清していく。
1865(元治元)年2月には腹心・山南敬助を切腹させ、1867(慶応3)年秋には、参謀格として迎えたが離隊した伊東甲子太郎一派を暗殺した。

▼ 芹沢鴨、平山五郎、河合香三郎を葬った壬生塚 (壬生寺境内)

   
 
 
 

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