幕末の京 勤王・佐幕入り乱れ風雲急 幕府は朝廷との融和を図ったが・・・・・

 ▼ 徳川幕府の京の拠点・二条城 (二の丸御殿)

300年近く続いた徳川幕府が外圧と内圧によって激しく揺れ始めていた。
1853(嘉永6)年、米国ペリー提督率いる黒船が浦賀沖に来航。
幕府は大混乱に陥った。
すっかり弱体化していた幕府はペリーの威嚇外交に押し切られ、あわてふためき開国する。
大老・井伊直弼は日米和親条約を皮切りにオランダ、フランス、イギリスなどと次々に条約を結んでいった。
条約は日本に不利な上、条約に必要な天皇の勅許を無視したため幕府内部にも批判が起こり、次期将軍選びもからんで、江戸幕府は内部崩壊を見せ始めた。

とくに天皇無視の幕政に批判が高まり、政治を朝廷に戻し外圧を閉め出す「尊王攘夷」思想が芽生え、やがて討幕運動の主役となる勤王の志士たちが誕生する。
1858(安政5)年、反体制勢力を封じ込めようと井伊は、尊攘派リーダーの吉田松陰や梅田雲浜らを捕らえて処刑、弾圧に乗り出した(安政の大獄)。
その井伊が翌々年に尊攘派水戸浪士らに刺殺され、歴史舞台は江戸から御所のある京へと移った。

幕府を倒し、朝廷主導で新生日本を立て直そうという土佐藩の坂本龍馬や長州藩士桂小五郎ら勤王の志士たちが、続々と京へ結集。
土佐藩脱藩志士・吉村寅太郎らが、若い公家と天誅組を結成して倒幕テロが横行。
1862(文久2)年4月には薩摩藩の討幕急進派の有馬新七ら9人の志士らが、伏見の寺田屋に終結したところを薩摩藩剣士たちが急襲、京の討幕クーデターを未然に防ぐなど、静かだった京の街は一触即発の不穏な空気が漂っていた。
危機感を募らせた幕府は朝廷との融和をはかるため、公武合体論者・岩倉具視の進言を受けて孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に降嫁させ、将軍警護と京の治安を守るため会津藩主・松平容保を京都守護職に任命した。

 ▼ 天皇の住まい・京都御所 (紫宸殿)


風雲急を告げる京。
二条城に入った将軍家茂警護のために江戸で募集をした労使隊に加わったのが近藤勇、土方歳三ら江戸試衛館道場の剣士と、入洛後共に新選組を結成する芹沢鴨らの水戸勤王派の剣士たちだった。
江戸から入洛した総勢240人もの浪士隊の大半は、隊の仕掛け人である庄内藩の尊攘派剣士・清河八郎に率いられて江戸に引き返したが、徳川幕府に忠誠を誓う佐幕派思想の近藤ら新選組は、最後まで京で幕臣として戦い続けた。
同志芹沢派の粛清や勤王の志士たちを襲った池田屋騒動など、新選組隊士の誠の羽織が京の街でまぶしく躍ったのは、鳥羽・伏見の戦いで敗走するまでのわずか5年間だった。
 
 
 
 
 
 
 

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