花 街
五花街(祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町・上七軒)と島原のこと

祇園とは、樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)の最初の”祇”と最後の”園”との略語 
阿弥陀経における「祇樹給孤独園」は、ジェータ王子の樹園(祇樹)・アナータピンディカの園(給孤独園)という2人の名を冠した名称です。
祇園とは、2つの地名をあわせたものを略して「祇園」と呼ばれるようです。

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行事===

「始業式」 一月七日

祇園甲部は女紅場学園、祇園東はお茶屋組合二階、宮川町は東山女子学園、先斗町は鴨川学園。
上七軒は一月九日に歌舞練場。

芸妓・舞妓の誓い (祇園甲部)
一 私たちは常に美しく優しく親切にいたしましょう
一 私たちは祇園の伝統を誇りとし、心の修養につとめ芸妓の習得に励みましょう
一 私たちは善良の風俗を乱さない様、清潔でありましょう
一 私たちは京都の国際的地位を認識し、新知識の吸収に意を用い、視野を広めましょう
一 私たちは常に良き風習をつくり、皆さんから愛されましょう

芸舞妓は黒紋付を着て、舞妓は一月の簪、芸妓は赤玉の簪。
舞妓は本物の稲穂を右側前方、芸妓は左側前方に挿し、縁起ものであるこの稲穂から三粒を貰って財布に入れておくと、お金が入ってくるという。

祇園甲部では、井上八千代師が地唄舞「倭文」を舞う。

「初寄り」 一月一三日

祇園甲部では、芸妓・舞妓が井上八千代師の家に集まり、お屠蘇とお雑煮で新年を祝う。

「節分とお化け」 二月三日 または 四日

氏子になっている八坂神社と北野天満宮では、芸舞妓の奉納舞があり、その後、豆まきがある。

夜には、「お化け」という行事が行われる。
仲の良い芸舞妓が数人で組んで、仮装してお座敷を回る。

「梅花祭」 二月二五日

菅原道真公の命日にあたり、北野天満宮では「梅花祭」が行われ、上七軒の芸舞妓たちによる野立てがある。

「水明会」 三月初旬

先斗町の踊りや鳴り物など芸事の発表会。
日頃の芸の研鑽の成果をみせる本格的な舞台です。
 

「大石忌」 三月二十日

お茶屋「一力」の行事。
「仮名手本忠臣蔵」の七段目に「祇園一力茶屋」が登場する。
大石内蔵助が切腹したのは1703年(元禄十六)、旧暦二月四日で、太陽暦では三月二十日に当たる。
これを偲び、「深き心」を井上八千代師が舞い、一力で見習をした芸舞妓三人が地唄「宿の栄」を舞う。

一力亭の招待状が必要

「春のをどり」 四月

祇園甲部 
「都をどり」 1日〜30日 祇園甲部歌舞練場

宮川町  
「京おどり」 第一日曜〜15日間 宮川町歌舞練場

上七軒
「北野をどり」 15日〜25日 上七軒歌舞練場

*おまんじゅうののってくる菓子皿は、記念に持ち帰れます*
 

「平安神宮奉納舞」 四月十六日

若い芸妓が、舞を三曲、奉納する。

「鴨川をどり」 五月一日〜二十四日

先斗町歌舞練場。
第一部がお芝居、第二部が踊りの舞台で、お芝居があるのは先斗町と上七軒のみ。

祇園放生会 六月四日

比叡山から僧をまねき、供養した鯉の稚魚を白川に放流します。
祇園申部の舞妓さんも参加。

「京都五花街合同ー伝統芸能特別公演 -都の賑い-」 六月下旬の土・日

各花街ごとに芸舞妓さんが接待する夜の宴会つきのパック・チケットも売り出されます。

「みやび」会 七月初旬

舞の上達や健康を祈念する会。
祇園甲部では毎年芸舞妓がそろいの浴衣を新調し、井上八千代師とともに八坂神社にお参りする。

みやび会 
都踊りの名称についても議論があった。 
最初は「みやびをどり」が候補に上がったが、井上流の家元・片山春子は 
「”みやび”の”び”の語感が悪いので”都踊り”がどうでしょう」ということで、決まった。 
この時、春子師は「みやび」の言葉を頂きたいと申し出て、井上流の舞の会に、「みやび」会という名がつけられた。

「祇園祭宵宮神賑奉納」 七月十五日

祇園祭の宵宮祭に、祇園申部の舞妓さんの京舞の奉納があります。

「花笠巡業」 七月二十四日

祇園甲部・祇園東・宮川町・先斗町の四つの花街の芸舞妓が参加。
「花笠巡業奉納舞」では、舞妓は「舌きりすずめ」を題材にした「すずめ踊り」を奉納。

「上七軒ビアガーデン」 七月一日〜八月三十一日

上七軒歌舞練場の庭園にて、芸舞妓全員が当番制で参加。

「八朔」 八月一日

芸妓や舞妓が芸事の師匠やお茶屋などへ挨拶回りをする日。
祇園甲部では、絽の黒紋付きという正装をし、おふくを結っている年長の舞妓は、髪を奴島田に結う。

*朔日とは一日のこと

「温習会」 十月一日〜六日  

祇園甲部歌舞練場で、芸妓・舞妓が日頃励んできた、井上流京舞を披露する発表会。 
春の花やかなをどりに対し、しっとりとした優雅な京舞。 

「ずいき祭」 十月四日

北野天満宮の氏子である上七軒の芸舞妓がお茶屋の玄関先に並び行列を見送る。

「時代祭」 十月二十二日

昭和二十五年から行われるようになった婦人行列は、花街が交代で参加している。
小野小町、静御前、巴御前に扮装して参加する。

「祇園をどり」 十一月一日〜十日

祇園東の祇園をどりが祇園東歌舞練場にて。
先斗町の秋の鴨川をどりが無くなってしまったので京都の秋のをどりは、祇園東のみ。

「かにかくに祭」 十一月一日

祇園をこよなく愛した吉井勇(1886〜1960)を記念する行事。
「かにかくに祇園は恋し寝る時も 枕の下を 水の流るる」という歌を詠んだ。
吉井勇の誕生日である十月八日に向けた準備が一か月遅れ、十一月八日に除幕式が行われた。
この歌の歌碑は、文学芸妓の多佳のお茶屋「大友」跡に建つ。
多佳は多くの文人墨客と親交があり、夏目漱石や高浜虚子や谷崎潤一郎など。

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紅燈歌人、吉井勇が酔いしれた花街祇園 
祇園を流れる白川沿いの新橋畔に吉井勇の歌碑がある。 
鞍馬石に祇園情緒を歌った「かにかくに祇園はこひし寝るときも枕の下を水のながるる」が刻まれている。 
昭和三十年、勇の古希を祝って建てられた。 

吉井勇は実は京都ではなく東京の生まれ。 
父親は伯爵。 
つまり華族の子供である。 
若い頃から紅燈狭斜の巷を愛し、早稲田大学を中退している。 
いわば放蕩息子である。

貴族院の議員だった父親はそれでも息子に寛大で「好める道なら仕方がない。然し其の道に秀でよ」と遊蕩費を惜しまずに勇に与えた。 
その結果、紅燈歌人として名を残したのだから、父親としては先見の明があったことになる。 

明治三十九年(1906)、二十一歳の時にはじめて祇園に遊んでから毎年のように出かけ、花柳界の艶冶な世界に耽溺した。 
「かにかくに」は、明治四十三年(1910)に森鴎外を顧問とする雑誌「スバル」に発表されたもの。 
二十代の作である。 

当時、白川沿いに「大友」というお茶屋があった。
女将の磯田多可佳女が文学好きで、吉井勇だけでなく夏目漱石、谷崎潤一郎、志賀直哉、里見?らがここで遊んだ。 
奥座敷はちょうど鴨川の川床のように白川の流れの上に張り出していた。 

吉井勇はこのお茶屋「大友」に泊まり、「枕の下を水のながるる」の想を得た。 
「大友」は戦時中の建物疎開によって取り壊されてしまったが、往時は隠れ里のようなひっそりとした良さがあったらしい。 
京都生まれの作家。秦恒平によれば、白川は戦前まで家と家とのあいだを隠れるように流れていて、橋の上に立ち止まりでもしない限り、川面を見ることはできなかったという。 
「枕の下を水のながるる」はそうした白川のほのぐらく、なまめかしい水の流れから生まれている。 

祇園を歌った吉井勇の歌には「伽羅の香がむせぶばかりににほひ来る祇園の街のゆきずりもよし」というなまめかしいものがあるかと思うと、祇園の柳をパリのマロニエにたとえた「巴里の風橡を吹くにもまがふべし祇園の風は青柳を吹く」というハイカラな歌もある。 

若い頃は各地を転々としたが、五十歳を過ぎてからは京都に落ち着いた。 
紅燈歌人としては京都こそが故郷と思い定めたのだろう。 

祇園への愛情は変わることなく、戦後復活した「都をどり」の歌詞を作り続けた。 

毎年十一月八日には歌碑の前で吉井勇を偲ぶ「かにかくに祭」が行われる。 
碑が立つ場所はかつて「大友」があったところ。 
歌碑の傍らに女将の多佳女が愛したというアジサイが植えられている。

「お献茶」 十二月一日

北野天満宮に献上するお茶席が設けられ、上七軒歌舞練場の二階で芸舞妓がお手前を披露する。

「顔見世総見」 十二月初旬

南座で東西の人気役者の「顔見世興行」が二十六日間行われる。
南座の正面には”まねき”と呼ばれる各役者の看板が掲げられ、この興行の五日間、桟敷に芸舞妓が総見する。
舞妓の簪には餅花とミニチュアのまねきが付いていて、そこに好きな役者のサインをしてもらうのが習わし。

「事始め」 十二月十三日

この日からお正月の準備を始め、一年のスタートとなる日。
芸舞妓たちは、踊りなど芸事の師匠や見習茶屋などに挨拶回りをし、鏡餅を納め、一年のお礼と来年に向けての挨拶をする。

祇園甲部では、井上八千代師の家へ鏡餅を持って挨拶に来る芸舞妓に、井上流の舞扇を手渡し芸の上達を励ます。

「おことうさん」 十二月三十一日

お世話になっているお茶屋へ「お事多うさんどす」と挨拶回りすること。
お茶屋のおかあさんは、挨拶のお礼に福玉を渡す。
元日、お雑煮を食べる前に割るもので、中には縁起物など京都らしい小物が入っている。

「おけら詣り」 十二月三十一日

大晦日から元旦の朝にかけて八坂神社に参拝して「おけら火」をもらうこと。
「削り掛けの神事」ともいわれ、檜材を擦り合わせておこした浄火を灯籠に移し、それに”おけら”と呼ばれる薬草をくべたもので、そのときの独特の香りが疫病を払うとされる。

おけら火を灯籠から火縄に移し、消えないように火縄を回しながら家に持って帰。
元旦の雑煮の火種にすると縁起が良いとされる。


 
祇園甲部===

水茶屋を起源とする茶屋営業が祇園界隈に初めて許可されたのは寛文五年(1665)。
祇園新地六町(川端町・中之町・弁天町・二十一間町・常盤町・東石垣町)に許可されたお茶屋は百軒を超えた。

享保十七年(1732)、八代将軍徳川吉宗が茶屋株を公許し、富永町、末吉町、清本町、元吉町、橋本町、林下町の”祇園新地内六町”に茶屋町が造られた。
『鴨東佳話』(鴎雨山人著)によれば、祇園が最も栄えたのは十九世紀初頭で、お茶屋の数七百軒、芸妓・舞妓の数三千名を超えたといわれる。

モルガンお雪の「加藤楼」は、祇園巽橋の東南。

昭和五十一年に祇園新橋界隈を伝統的建造物群保存地区に指定。
平成十一年に祇園町南側地区を歴史的景観保全修景地区に指定。

お茶屋約八十軒、芸妓約九十名、舞妓約二十名

記章
嘉永四年(1851)に、組内の八カ町の頭文字を円形でつなぎ、その中に祇の字を白抜きにしたものが始まりであった。
その後、明治十四年に祇園が甲部・乙部に分かれた祭、中の白抜きの文字を甲に変え、今日に至っている。


 
祇園東===

明治十四年(1881)、甲部と乙部に区分される。
昭和二十四年に乙部は東新地と改称され、その後昭和三十年ごろから祇園東と呼ばれるようになった。
この地は禁裏守護の火消し役、江洲膳所藩の京屋敷があった場所だが、明治三年にそれが撤去されると、その後にお茶が出来始め、華やかな花街となった。

映画「祇園の姉妹」は、ここ祇園東が舞台であった。

お茶屋約十軒、芸妓約十人、舞妓約三人

記章
甲部との分離の際、乙部の乙の字が中に書いてあったが、昭和二十四年に、祇園乙部から東新地と改名され、今では中央に乙の字はなく、つなぎ団子になっている。


 
宮川町===

宮川という名の由来は、「四条河原町祇園社(八坂神社)」ノ前ニアルニヨリ宮川トイウ。毎年五月晩日、六月十八日小将井ミコシ、コノ川辺ニ出ヅ。コレヲ神輿洗トイウ」と『雍州府志』にある。

この地域は広大な鴨川の河原であり、お茶屋の許可が宮川町全体に下りたのは、宝暦元年(1751)であった。

この界隈は芸人が集まった地域だった。
1603年出雲大社の巫女と称する女性、阿国が京都で念仏踊りを踊ったと言われ、その後、四条河原で阿国の歌舞伎踊りが盛んになった。
これを観るため、元和年間(1615〜1624)には四条通りの南側に三座、北側に二座、大和大路に二座、合計七つの櫓が公許された。

ところが、寛永六年(1629)、女歌舞伎は女性の肉体的魅力を強調し風俗を乱すとのことで、江戸幕府より禁止された。

このため、女歌舞伎に代わって、美少年ばかりで踊る歌舞伎踊り「若衆歌舞伎」が登場した。
女役には特に美しい少年が選ばれ、彼らの泊る宿があったのが宮川町であった。
彼らが春を売る「蔭間茶屋」もあったという。
彼らが、後の歌舞伎の女形の起こりであるといわれる。
現在の歌舞伎役者には屋号があるが、それは元々、当時若衆が出入りした宮川町の宿屋の屋号に由来するといわれている。

平成十一年、歴史的景観保全修景地区に指定。

お茶屋約四十軒、芸妓約三十人、舞妓約二十五人

記章
三ツ輪が明治中期から使われている。
芸妓育成学校である女紅場が府立になった時、寺社、町屋、花街の三者が合流して学校となったことを象徴しているといわれる。
その他、三体の神輿説などがある。


 
先斗町===

三条から四条間の約三百メートルの細長い区域。
慶長十九年(1614)、高瀬川が造営され、1670年には高瀬川と鴨川の間の護岸工事が終了し、石垣が造られ土砂を入れ中之島となった。
東山を見晴し、目の前には鴨川が流れる景色の良い場所となり、1674年にその中ほどの梅ノ木町に五軒家ができたという。
1712年には料理店経営許可が下り、お茶屋、旅籠屋が許可され、茶立て女が置かれた。
文化十年(1813)に芸妓取扱許可が下りる前は、酒席を取り持つ「配膳」と呼ばれる女性が現れた。
料理を宴席へ運ぶのは元々男性の仕事であったが、お酌をする女性がいなかったため、彼女らがお酌をしたのである。
これが、今では料亭や旅館などで料理を運んだりする「仲居」の始まりといわれる。

当時は「祇園育ち」の芸妓をそろえるのを誇りにしていた祇園に対して、全国の花街から芸達者な者を募り、受け入れた。
このため、先斗町は芸達者が多いと評価する人もいる。

”先斗”という名の由来には諸説あり、ポルトガル語のポント(先、先端、点、場所)に由来するという説。
江戸時代後期の地図には”ぽんと丁”という表記がみられ、元禄十五年(1702)の『万宝節用集町名鑑』という本には”ぽんと町”とあり、文政年間の「変額軌範」になると”先斗町”という漢字が現れている。

お茶屋約四十軒、芸妓約四十五人、舞妓約五人

記章
明治五年(1872)に鴨川をどりの初演の際、創案された。
鴨川には冬場、千鳥がたくさん集まるので、それを図案化したもの。


 
上七軒===

京都最古の花街。
十五世紀中頃の室町時代、将軍足利義政の時代に近くの北野社と呼ばれた今日の北野天満宮が一部焼失した。
この神社の修造作業中に、残った材料を払い下げてもらって七軒のお茶屋を建てたのが、上七軒の起こりである。
当時は、七軒茶屋と呼ばれた。

上七軒は北野天満宮の氏子であり、大茶会の伝統があり、二月の梅花祭、十二月のお献茶などの行事には、芸舞妓たちがお手前をする。

天満宮には古くから巫女がいた。
「神子」とも書かれ、神懸りになって神意を人々に伝える立場であった。
無心に神懸りになるには、歳若い少女でなければならなかった。
成熟した女性になると巫女としての職を離れなければならず、彼女らは、神社で占いをしたり、茶立て女になったりしたと伝えられている。
これが上七軒の芸妓の起こりといわれる。

平成十三年、上京北野界隈景観整備地域(お茶屋・歌舞練場は重要景観整備地域)に指定

お茶屋約十軒、芸妓約二十人、舞妓約五人

記章
五つのみたらし団子が二本で輪を作っている。


 
島原===

【財団法人 角屋保存会】

明治期に日本の歓楽街はその業務内容によって「花街」と「遊郭」に分けられました。
歌舞音曲を供して遊宴する街を「花街」、歓楽のみの場は「遊郭」と呼ばれます。
「遊郭」は、江戸初期に官命によって囲われた地域で。官許により傾城町の営業を行った地域の俗称です。
しかし、京都の島原は東京の吉原とは異なり「花街」として発展しました。

島原は公家や武士、有力町衆などが太夫の歌舞音曲を楽しむほか、茶の湯や俳諧の寄合いなどの舞台となった一大文化サロンで、明治六年には歌舞練場も備え、「青柳踊」や「温習会」の上演も行っています。
島原には東西に二つの門があり、誰もが出入りできる開放的な地域だった。

「太夫」と「花魁」も似て非なる言葉。
前者は「傾城」、つまり芸妓で、後者は娼妓です。
太夫とは「能太夫」、「舞太夫」と呼ばれた傾城がもっとも巧みな人という意味で、舞や茶、和歌、俳諧、そして琴や琵琶などの芸の最高位の呼称で、豊かな教養が求められました。
また、外見上も太夫と花魁は違いがあり、太夫は前で帯を心の文字に結び、花魁は前で垂らして結びます。

「島原」は地名ではい。
現在、東は大門(慶応三年 1867)から西の千本通り、北は中央市場青果棟から南は正面通南一筋目の道までのの一画が島原で、かつての朱雀野と呼ばれる田園地域でしたが、寛永十八(1641)年、それまでの「六条三筋町」から傾城町全体が移住し、新しく屋敷町ができたため、「新屋敷」が地名となりました。
新屋敷には「中之町」「上之町」「中堂寺町」「太夫町」「下之町」「揚屋町」の六つの町があります。
六条三筋町は、南北は五条から六条、東西は室町から新町通りの一画であったそうですが、ここから狭い道を通って、傾城たちがぞろぞろと西へ西へと大移動する様は、ちょうど四年前に九州の島原で起こった「島原の乱」を彷彿とさせたことから、いつしか人々は「島原」と呼ぶようになったということです。

さらにさかのぼれば、天正十七(1589)年、柳馬場二条に官許の傾城町が出来たのですが、これは御所に近すぎるということで、慶長七(1602)年に六条三筋筋町に移転。
六条も洛中で、公家の家も多く、ある太夫が摂家の北の方に間違えられるといった事件もあったとかで、当時としては辺鄙な朱雀野へ移転命令が出たわけです。

島原には「揚屋」と「置屋」という業種があります。
この二つは業種が異なり、「揚屋」は遊宴の場として大座敷と大厨房を備え、料亭の機能を果たします。
「置屋」は太夫や芸妓を抱えて教育し、揚屋へ派遣する業種。
島原の「輪違屋」は、置屋です。
これは「送り込み制」と呼ばれ、祇園などの花街に残るシステムです。

嘉永七年(1854)の夏の大火によって決定的な打撃を受けた。
明治維新後、毎年四月に太夫道中などの伝統的な風習を復活させたものの、当時はすでに京都の遊興の場は祇園に移っていた。

揚屋では宴会のほか茶会や句会などさまざまな寄合いが行われました。
座敷に面して庭を配し、必ず茶室が設けられています。
そして大きな厨房、これが揚屋建築の特徴です。

当時の角屋は、間口が狭く奥行きの深い、いわゆる京町屋の様式で現在の三分の一くらいの規模でした。
一階を厨房と住居、二階が客間(座敷)となっていましたから、客を二階へ揚げることから「揚屋」と呼ばれるようになった。
現在の規模に拡張したのは天明期のことで、宝暦年間には京と大坂の揚屋はどんどん大きくなっていきます。

座敷は、一階に大広間。
二階には「緞子の間」、「翠簾の間」、「扇の間」など、それぞれの趣向に沿った室名のある座敷が十一室。
それぞれに名だたる絵師が襖絵や天井絵を描き、床、壁、天井、欄間などの細工も粋を凝らし、贅を尽くした建築で、中国風の座敷もあります。
庭は臥龍松を点景とした枯山水。
二つの茶室も含め、公家や武士、町衆などが寄合い、京のもてなしを文化を育んだ拠点でもあります。


 
五花街の踊りと流派

花街の踊りは、四月一日に開幕する祇園甲部歌舞会(東山区)の都をどりから、宮川町(同)の京おどり、上七軒(上京区)の北野をどり、先斗町(中京区)の鴨川をどりと続き、それぞれの歌舞練場で開かれる。
祇園東(東山区)の祇園をどりだけは秋に行われる。

最も歴史のある都をどりの始まりは、1871年(明治4)年の京都博覧会がきっかけだった。
東京遷都で衰退しつつあった京都の繁栄策として博覧会が開かれたが、冬だったために人手が少なく、人気がなかった。

打開策を練るため、京都府参事で後の知事・植村正直や側近の明石博高が、祇園の茶屋「一力」の主人杉浦治郎右衛門らと協議。
京の活性化を目指して、花街が博覧会に協力することになる。

杉浦から相談を受けた京舞井上流の片山春子(三世八千代)は、伊勢古市の亀の子踊りを参考に、芸舞妓による集団舞踊の振り付けを考えた。
それまで1〜3人の座敷舞だった京舞に、レビュー形式の総踊りを盛り込んだのは画期的だった。

「京都博覧会沿革誌」(1903年)などによると、新しい舞に合わせ、植村は「都踊十二調」を作詞。
翌年春に再び開かれた博覧会の余興「附博覧」として、祇園・新橋の茶屋で舞妓三十二人のほか、唄や笛、鼓などの計五十三人が一日に五回公演、好評を博したという。

「当時は文明開化の時代。植村の京都近代化政策とも重なり、近代にふさわしい文化として都をどりが考案された。日本独特の文化でありながら、欧米にも通じる普遍性のあるダンスとして、華やかな花街のイメージをつくり出した」と、京都の近代史に詳しい高木博志京都大助教授(2007.02.19現在)は指摘する。
外国人からは「チェリーダンス」と呼ばれ、春の踊りとして定着していく。

この後、都をどりは歌人の吉井勇が1950年から十年間、長唄や地唄を作詞。
吉井と親交が深かった文豪・谷崎潤一郎も狂言「墨塗平中」を執筆するなど、京都の伝統芸能である京舞井上流とともに注目を集め、京都の風物詩になる。

一方、先斗町の鴨川をどりは、1875(明治8)年の第四回博覧会から参加した。
当初、京舞篠塚流の篠塚文三が振り付けを担ったが、昭和に入り、指導者の舞踊の流派が変わるに伴って舞台の内容も変化する。

1920年代から若柳流になり、戦後は、元歌舞伎役者の初代尾上菊之丞による尾上流(東京)の舞踊に。
菊之丞は純舞踊の都をどりに対抗し、歌舞伎のようにドラマ性やせりふのある舞踊劇を初めて取り入れた。
これまでに「太閤記」や「西遊記」などが演じられ、分かりやすく面白いと評判になった。

また、各地の民謡をテーマにした舞踊をはじめ、地域の子どもによる少女ダンスや洋楽なども披露した。
四七年から舞台美術に携わる巻本光造さんは「毎年新しい特色を出していこうという気持ちが強かった。民謡を取り入れた年は、会場いっぱいに観客が詰め掛け、追加公演も行った」と振り返る。

都、鴨川をどりの人気を受け、五○年に宮川町の京おどり、五二年に上七軒の北野をどりも始まる。
京おどりは大胆で豪華な舞踊が名物で、北野をどりは演劇的な舞台が特徴となっている。

祇園甲部
都をどり − 京舞井上流(京都だけにしかない型で、華やかさの中に気迫が感じられる。振りは若柳と正反対の無表情な人形振り。)

宮川町
京おどり − 若柳流(北野をどりの花柳流と似ている部分もあるが、振りは細やか)

上七軒 
北野をどり − 花柳流

先斗町
鴨川をどり − 尾上流(芸妓の型を大事にしている)

祇園東
祇園をどり − 藤間流(江戸の歌舞伎舞踊の要素を色濃く残している)

■都をどり 4月1日〜30日 祇園甲部歌舞練場 1日4公演
■京おどり  4月7日〜22日  宮川町歌舞練場 1日3公演
■北野をどり 4月15日〜25日 上七軒歌舞練場 1日2〜3公演
■鴨川をどり 5月1日〜24日 先斗町歌舞練場 1日3公演
■祇園をどり 秋開催


 
変身舞妓===
電話番号・料金等は訪問者の責任で確認してください!

「変身舞妓着付協会」会員
「紅先笄 日本髪の世界 美容室 やまと」
「舞妓変身処ペンション祇園」
時代衣装 おかむら
「銀閣寺 織」


 
余談===

祇園とは、樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)の最初の”祇”と最後の”園”との略語 
阿弥陀経における「祇樹給孤独園」は、ジェータ王子の樹園(祇樹)・アナータピンディカの園(給孤独園)という2人の名を冠した名称です。祇園とは、2つの地名をあわせたものを略して「祇園」と呼ばれるようです。

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芸者は、踊りや三味線、鳴り物など日本の伝統芸能で宴を盛り上げるプロの女性エンターテナーです。三味線を弾く人を地方(じかた)、踊りを踊る人を立方(たちかた)といいます。ちなみに男性の宴会エンターテナーを幇間(ほうかん)通称たいこ持ちといいます。舞妓は芸妓見習中の少女のことで、京都独特の呼び名です。他の地域でも芸者見習いは、「お酌」とか「半玉(はんぎょく)」とか呼ばれます。名前の由来は、まだお酌くらいしか出来ないため、宴席での料金が芸者の半分だったからです。 

芸者は通常、置き屋と呼ばれるプロダクション(の様なところ)に属し、見番(けんばん)と呼ばれる芸者の斡旋・精算を行う事務所からの手配で、揚げ屋である宿泊施設や料亭へ派遣されます。宴席での料金は花代とか玉代(ぎょくだい)、あるいは線香代と言われます。これは昔、時間を計るのに線香の燃え尽きる時間を計っていた事によるものです。通常は線香三本分(90分)で一席の料金が決まっており、その後は30分毎に追加料金となります。 

今は数少なくなりましたが、芸者が出入りする料亭街は花街(はなまち)と言われます。その花街の華やいだ世界である花柳界(かりゅうかい)のいわれは、柳緑花紅(色鮮やかな緑の柳と紅の花)から、あでやかな世界を意味しています。踊りの花柳流(はなやぎりゅう)は西川流からの分派で、同じ花柳の名前の元、各地の見番で芸者衆に踊りを教えている方が多いとか。同じあでやかさでも、花魁(おいらん)は江戸時代、公許であった吉原の遊郭にいた高級娼婦で、芸者とは異なります。 

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